これからどうする?
そのものズバリな題で。
どうもrobeです。
またまた間が空いてしまいましたが、お久しぶりです。
あっという間に4月も半ば、早い早すぎる。
気がつけば花粉の症状が出てない!
人はノーマルな状態(鼻水も目もかゆくない)になっても、「直った!」とは中々気づかず「あれ、なんかいつの間に楽になってた」と後で気づくもんですね。
こういう嬉しさを本当はもうっと噛み締めたいんだが・・・
今、仕事が落ち着き(平時の、かなりらく~な状態に戻りました)
そして色々また考え事も出てきました。
とりあえず、現在土日のどちらかは、来る5/13(日)豊洲駅前のイベント本番に向けての稽古になっています。
ちなみに私が仲間と活動しているパフォーマンスチームの名前は「Oggi the Party」といいます。呼び方は「オッジ・ザ・パーティー」。
歌ったり踊ったり、見ている人を、ハッピーにしたい。
そんな団体です。
お見知りおきを。
さて。
今後のこと。
今後とはこの先の、自分の「生活」
それを成り立たせるための「仕事」を、どうするか。
ちょっと前のブログでもうすく触れたかも?なんですが、私の職場があとどれくらい持つかが微妙なとこで。
契約としてはとりあえず次の9月までは生きてて、その後の更に半年更新があるかどうか。なんとなくあるような気配はあるんだけど、分からない。
それになにより、あと1年しないうちに私は35歳になる。
「35歳はおばちゃんか否か問題」という論争を昨日ネットで見てしまい。
『おばちゃんと言う人は、なんでも年齢のせいにする人が多い気がする』
『35歳をおねえさんだと思い込んでる人より、ちゃんと自分を分かってると思うよ』
『人によってはおねえさんに見えるしおばちゃんにも見える年齢。でも世間的には子供がいたり、子供がいなくても甥・姪が普通にいる年齢だから、子供からみたら「おばちゃん」だよね』
いろんな意見がありましたが、総じて、「もう、若くはない」んだなという見解。
年とは思わない、でも、決して「若いですね」とは云われない年齢。
誰かが言ってたが、30歳になるときは特になにも思わなかったが、35歳になるときは本当に色々な感慨があったと。
多分それは、40歳がなんとなく見えてきて、自分の来し方とかこれからを漠然と不安に思ったりするからなんだろうなあ・・・最近本当に思う。
この10年、特に何もキャリアを積まないまま来てしまった。
やってきたことといえば、上のオッジと、20代中盤は歌、だけ。
そして会社勤めは最初のブログでも書いたけど、短期や長期の派遣を繋いで繋いできていまここ。特にスキルになるようなものも身につけず、後半は入っては辞め入っては辞めしてしまった。ここにいたくない、そう思ったら1週間で辞めてた。
全ての才能の種って、その人が生きてきて8万回言われても治らなく、直せなかった部分だと思ってます。
— しいたけ占いのしいたけ (@shiitake7919) 2018年4月13日
「なんでこれ普通にできないんだろ」
って年齢が若い頃には本当にガッカリしちゃうやつ。
「あ、直らないんだ」と気づいた時からその弱点のマイナスがプラスに転ずる道が開き出したりする。
これを読んで、ふと立ち止まる。
人が普通にこなしていることをこなせない自分にも何か転じることがあるのだろうかと。
病弱なrobe、まきむぅに会いに行く。(後編)
めっちゃ間が空いてしまいました。
ああ、なにはなくとも「続けたい」という意思の下、始めたブログなのに。
しかしここで放置しては勿体無い。
こんな辺境も辺境なブログに、もし一人でも待って読んでくれている人がいたらその人にも読んでもらいたいし、なにより自分自身に向けて。
せっかくなので、まきむぅの後編をば。
その日は暖かい日が続いた最中の、冬の戻り日で冷たい雨が降っておりました。(もう2週間以上経っちゃった・・・)
下北沢のお洒落なブックカフェ?みたいなところに、ぎっしり敷き詰められた椅子に人がぎっしり。
その日は「文月悠光(ふづきゆみ)」さんという方の新刊発売記念で、まきむぅはどちらかというとトーク相手として出演、だったようですね。
でもなんとなくですが、まきむぅさんファンも半数はいたような気がしました、体感的に。
(注:ここから完全にまきむぅのお客視点で書かれます。文月さんファンの方がいたらごめんなさい。)
まきむぅ、生でお会いすると瞳がキラキラしているなあというのが印象的でした。やっぱり何かを発信しようとしている人は、目が違うのかなあ。
まきむぅのファッションがまた個性があって可愛かった~
ピンクの羽織が、なんでしょ、形が「赤毛のアン」とかに出てくるような貴婦人のジャケット、みたいな形?
19、20世紀のヨーロッパの女性のジャケットの形っていうんでしょうかね、ノーカラーのピンクのジャケットに、ハットを被っていました。なんかとってもご本人のこだわりを感じられる装いでなんか嬉しくなってしまった。着るものにこだわりがあったり、好きなものがはっきりしている人ってわたしなんか好きなんですよね。
全体的に本当に、本の中の人、みたいでした。
そこで、いわゆるトークショーがスタートするんですが、私が終始思ってたこと。
「まきむぅって・・・話が上手だなあ~・・・・」
なんかね、お相手の方がどちらかというとそれほど巧みな話者ではないように見受けられて(ごめんなさい、ディスってませんよ。)、でもそれもまた「詩人」らしいなあ、というか、ご本自体も、「臆病な詩人」と銘打ってあるとおり、とても「生きるのに不器用な人」というイメージを持ったんですよね。(あ、でも、そこでお話をされている姿は、本当に良い意味で「どこにでもいる20代の小奇麗な女性、という感じでした)
なんにでもどこにいいても「試されている気がする」という文月さんに対して、
「それはどういうことなのか」
「そのような人格が形成されたのはどこに端を発するのか」ということを知りたいがために、まきむぅは一生懸命会話の中で、見つけていこうとしているように見えました。
なんかこう、文月さんの話を聞いている人が自然と知りたいと思うだろうことを、客と同じ目線に立って、だけどトークする側として盛り上げつつもその方を掘り下げていこうという果敢な意思がものすごく見えたんですよ。
まきむぅはとても優れたインタビュアーなんだなあという感想をもちました。
そして時折、その方が「私だけじゃなくまきむぅさんのことも話してください」と振ってくださったりする中で、興味深かったまきむぅの話を。
・まきむぅは昔、モー娘が大嫌いだったという話。
カミングアウトしていない頃、の話だそうです。
「最初にカミングアウトしなくてはならなかったのは、自分自身だった」ということをまきむぅは書いていますが、可愛い女の子たちに対する自分の眼差しへの、強烈な裏返しなんですかね。なんか印象に残った。
・まきむぅは、オーディション会場で「総合審査委員長」になろうと思ったという話。
タレントとして沢山のオーディションに出向いていたころ、そりゃあもう沢山のNGを突きつけられる日々だったそうです。自分の目の前で点数をつけられ、査定され、否定される。とにかく嫌で辛くて仕方なかったけれど、あるときからまきむぅはこう考えるようになったそうです。
「この会場で、目の前の人たちが私にどれだけ低い点数をつけようと、最後に私まきむぅが総合委員長になって満点をつけよう。『1点、3点、4点・・・そして委員長がだした総合得点は、・・・100点!』とすればいいのだ」と。
人から下される強烈な否定から、完全な自己肯定で身を守る、という考え方ですよね。これ、言うは易しだなあと思いつつ、それを実践してかつ「実際に身を守った(守れた?)」まきむぅはすごい(私は多分そこまでいけないな・・・)
・幼い頃からバイオリンをやっていた文月さんがその発表会に向けて準備を入念に行ってた、ということに対して、「つまりその感覚のまま大人になったのかな?常に試されている感覚があるって言ってるけど・・・今は毎日が発表会じゃなくていいんだよ!」って言ってたこと。
毎日がはっぴょうかい・・・なんだろう、すごくギュウとした。
この言葉のもつ息苦しさよ。
こんな感じですかね、意味合いはちょっと違ったりしている部分はあるかもしれないですが。
なにせ時間が経ってしまったもんで、すこし記憶が薄れてしまってるところがりますが、きったない字で走り書いたメモを解読しながら掘り起こしました。
最後にサイン会で、その場で買ったまきむぅの「ハッピーエンドに殺されない」に、似顔絵とサインを頂きました。至福。
そして会話ができるその時間、「名前はrobeでお願いします」とお伝えしたところ、「なんでrobeなの~?」と天使の微笑で聞かれ、なんの面白い回答も用意しておらず、あっけなくタイムアウト。なんでもいいから印象を残せるような答えを用意しておけあの日の私よ・・・
そして目の前でわたすの顔を見て似顔絵も描いてくれたのです。(もうすこし小奇麗な格好とメイクをしていけあの日の私よ・・・)
宝物。
まきむぅ、これからも応援します。
病弱なrobe、まきむぅに会いにいく。(前編)
例えばテレビの向こう側の人が、目の前に現れたとき。
例えばドームでそのゴマ粒ほどの姿を、オペラグラスで追いかけたその人が、自分のパーソナルエリアぎりぎりにきたと考えたとき。
ちょっと大袈裟かいな。
私が昔から会いたいと思う有名人は、
と、それほど変わらないのですが。(ざ・ミーハー)
今回、生で会えてちょっと感動した人がいます。
この『ハッピーエンドに殺されない』の著者。
「まきむぅ」、こと、牧村朝子さん。
この刺激的なタイトルが、またね、そそりますでしょ?
読んでみたくなりませんか? 読もう。
まきむぅとは?
タレントであり文筆家です。
私が彼女を知ったのは、LGBT関連の記事をネットサーフィンしていたときに偶然彼女のつぶやきがひっかかってきたのだったかなあ。きっかけはあまり覚えていないのですが、彼女の知性・考え方・文章の魅力に一気に惹きつけられてしまい、しばらく彼女のブログやtwitterを探しては読んでいました。(ちなみに私はtwitterは読む専門)
アメリカで「私たちはLGBTだ!」って自称して立ち上がったものを、日本では「LGBTって知ってます?こういうマイノリティの人たちのことなんです。理解してあげましょうね」っていう他称で広めちゃった感あるからなあ。
— まきむぅ(牧村朝子) (@makimuuuuuu) 2018年1月31日
例外ももちろんあるけど、大筋はそうだと思う。アメリカでは自称、日本では他称。
彼女は世間的には「レズビアン」ということを公表している数少ないタレントさんです。そしてまきむぅの夢は「将来、女の子同士のカップルから『レズビアンってなあに?』って聞かれること」だといいます。←もう、この表現が素敵。
”レズビアンだと分類されることは受け入れるし、自己紹介の時も必要なら「レズビアンです」って言うけど、アイデンティティとしてことさら「レズビアン」という言葉を掲げたり、胸を張ったりしない。レズビアンである前の自分自身を生きることにしたんです”(著書『百合のリアル』より抜粋)
まきむぅは、声高にLGBTの権利を主張するアクティビストではない、と思います。
(注:そういう方を否定するものではありません)
プラカードを掲げてシュプレヒコールをあげて通りを練り歩く、自分にはそんなことは出来ないと、古い1Kのアパートに引きこもっている悩めるLな女子に「いいじゃんいいじゃん、もうあなたのままで。人生楽しく生きなきゃ損じゃない?」って、肩を抱いて軽やかに外に連れ出してくれるような、謎の美女、といった感じでしょうか。
(余計に意味不明か)
そして私はそんなお姉さんをとっても素敵だと思うし、連れ出されてみたいと思う。
同じ時代を生きてるあなたとわたし
みんな違ってみんないいのだから
なにをそんなに区別したがるの?
知らないことは教えあえばいい
気に入らないことはきちんと伝えたらいい
そういう、人として基本的な対話を、もっとも~っとしていきましょうよ!!って、そんな風なことを、まきむぅは文章やトークショーやメディアを使って、発信してるんじゃないかなあと思います。
・・・私は「自分が恋愛・性欲の対象にするのは女性なんだ」ということを自分自身で受け止めるまでに、12年かけています。でも、もし世の中がもう少しましだったなら、その12年を別のことに使えたわけですよね。・・・そういう時間をもっと別のことに使える世の中を次世代に残したいと思って、文章を書いています。
(「LGBTのショートカットの道を作って消えていく人になりたい」牧村朝子さんの生き方、働き方 - はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」
抜粋)
↑まきむぅが今、人前で話す・文章を書く理由。ですよね。
そんな彼女を、一目みたくて。
最悪な体調をおしながら、雨の降る夜の下北沢を歩いたのでした・・・
つづく。。。
robe、人生で二度目の救急車に乗る。
前回の記事、「ぎっくり首」発症から、まもなく1週間が経とうとしています。どうもrobeです。
しかしこの短期間の間に夜間の救急病棟にお世話になったりもしました。てへ。
・・・・・
てへじゃねーよーー
もうほんっっとうに踏んだり蹴ったりだよーー(怒泣)
GAOさんのLIVEチケット、ムダになっちゃったしよーーー
行って実物を拝見したかったのに、歌、聴きたかったのに・・・
くそーーーーー
厄年か?厄年なのか?いやもう終わったし?なんだ変な霊がついてるのか?お払いいくべき?
・・・
いや、単なる不摂生・暴飲暴食の成せる業だったのでしょう。
おそらくね。
* * * * *
しかし、ことは突然だったのですよ。
夜中とにかく気持ち悪くて目が覚めて、そこから下痢は止まらないし、嘔吐感がひどくて洗面器にずっと頭突っ込んでは(しかし私は吐けません。嘔吐恐怖なのか、小さい頃は乗り物酔いで、ものすっごい吐けたのに。。@遠足)
もうどうしようもなくなって、ちょっと大袈裟だけど、「あ、やばい」とか思って、ついに夜間に109を回してしまいました。税金を使ってしまってすみません。(高校生の頃、食中毒で一度救急車で運ばれた経験アリ。その記憶もあったと思います)
そして夜間救急に運び込まれて(余談だけど、救急車のサイレンってやっぱり消してはくれないのね。。電話したときに静かに来てくれますか?って頼んだけど、断られちゃった)、点滴などの処置を受けながら検査をするもおそらく食中毒ではなく、ウィルス性か細菌性の急性胃腸炎ですね、と。そして一応インフルの検査をされるも陰性、しかし発症からまだ間もないので陰性が出てる可能性もありますと言われました。
・・・・
そして朝の7時に病院を出ました。しかしまだ高熱だしフラフラな頭でタクシー呼んで4時間ぶりに自宅に帰還。請求額は約9000円。。点滴と血液検査だけでこれだけいくか~~
・・・たっかくないですか。そうでもないんですかね。
家で寝つつも熱が中々引かず上がっていくばかりだし、関節痛が辛すぎるので、インフルを疑い、身体引きずって今度は近くの内科に飛び込んだんですが、これまた1時間以上待たされ、そこででた結果は「陰性」。。貰ったお薬は漢方と高熱用の解熱剤。
もうなんか色んな意味で落ちまくって帰りました。
そこから丸一日は、熱と痛みで唸っておりましたが、ようやく落ち着きを見せ、人心地を得ました。
正直ね、今回の件はなんというか、徒労感が半端なかったっす。
なんかこう「ひとり相撲感」が。
救急車で運ばれるような人っていうのは、ものすごく血が出てるだとか、血液検査したら「あなた!どうしてこんなになるまで放っておいたの!?」とお医者様が血相変えるような数値が出るとか、なんかこう目に見えて「緊急かつ重病である」という人が資格をもっている、と思えるからです。胃腸炎で呼ぶかあ?みたいな、ね・・・
そしてその後も、ふらっふらになりながらインフルの再検査をしに別の病院に赴くのも、「これは紛れもなくインフルエンザ●型です」と言われてはじめて報われる、というか・・・
(なんかおかしなこと言ってる)
「・・・・こんなんで夜中に救急車で来るなよ」
「これくらいの症状なら、もう1日待ってから検査来いよ」とか、思われてるんじゃないかなあとか、そんな風に思えてしまうわけですよ。(読んでる人の中にもそういう風に思った人、いるのじゃないかなあ)
結局、運ばれてから4日目を経た今。
私は普通に起き上がれるようになり、ご飯も飲み下せるようになりました。さっきなんかコーラとか飲んじゃいました。ちょっと胃がきゅっとしたけど、それもまたよし。(よくない)
でもね、今回のことで、ちょっと考えたことがあります。
人によって、痛みの閾値って大分違うんじゃないかなって。
私もね、我慢はしないわけじゃないですよ。
というか我慢した上での、決断でした。救急車呼んだのも。
大袈裟だ、と言われたら確かに「てへへ・・・すみませんでがす」としか返せないんですが、私の感覚ではあれは「呼ばずにいられなかった」んです。
* * * * *
昔から、ものすごく「痛み」に敏感な子供でした。
怪我の痛みも腹痛も頭痛も歯痛も、ありとあらゆる痛みにすごく弱くて。元来あまりからだが強くないのか今までの人生でインフルエンザは10回はかかっていると思うのですが、そのたびに一番辛いのは、熱とかダルさよりも、インフル特有の「関節痛」だった。もう足を曲げたり伸ばしたり抱えたり、一晩中逃しようのない痛みにうめいてた(てか今も)。
勿論心の傷にも、ものすごくセンシティブでしたわ。悪口とかへの免疫の弱さったら。〇〇ちゃんがあなたの悪口言ってたよ、なんて聞いた日には本っ当に一日目の前が暗くなるくらい落ち込んで、じくじく痛んでた。「そおんなの、気にしなきゃよくない?」とか言ってる子を、マジで超人だと思ってた。
そんな私ですから、どうも自分は人より痛みに弱いらしい、とは昔から漠然とは思っていたわけです。そしてそのことを恥じていました。
単純に痛みに弱いって、なんかヤワ、というか「かっこ悪い」じゃないですか。「我慢強い」ってそれだけでなんか格好いいイメージあるし。
斉藤一人さんという方が言ってたんですが
「人の脳はストレスを紛らわせるために、痛みを出します。ストレスの負荷を感じさせないために、痛みという形で発散させようとするのです」
これ聞いたときに、なんか私にとってはすごく腑に落ちたんすよ・・・
上記の通り、「痛みに弱い」から形作られてきたといっても過言ではない私の人生(イヤだな)、その中でも数年前に引きこもってた時代、私はとにかく痛がってました。
首が痛い、肩が痛い(これは現在進行中)、背中が痛い
どこの病院にいっても原因が分からない。
医学的には私の身体は健康体だったのでしょう、でも痛いことはどうにも確かだった。痛くて痛くて夜中泣いてた。
そして当時の私は、ストレスフル、というよりもうストレスしか感じてない日々だった。(引きこもりの人は楽してる、と思う人は全く分かっていないと思います。それがどれだけストレスフルなことか)
そのストレスを少しでも減らすために、当時あれだけ痛みを感じさせていたのだとしたら・・・と考えたらものすご~く腑にオチたのよ。
* * * * *
だからね。
自分が、痛かったり苦しんだりしてるときに。
「大袈裟だ」とか
「それくらいみんな我慢してる」
って、言われたら、
「ああ、そうか。わたしは我慢が足りないんだ。」とおもうべきだと思ってた。
でも、そう考えた結果、当時の私は楽になれたか?
全然です。痛いのは私で、苦しいのは私。
それだけは他の誰にも分かってもらえない。
他人がいう「たいしたことないよ」なんてね、屁のカッパですわ。
そしてその痛みをどうやってひかすことができるのか(その痛みから救い出すか)、を誰より親身になって考えてあげるのも私なんだよな。
今回の場合で言えば、病院にいくことなのか、誰かにヘルプを出すことなのか、はたまた我慢をきめこむのか。決めるのは私。
原因不明の首や肩の慢性的な痛みなら
「わたしは、どうしてこの痛みをかんじているのか」を考える。
この痛みを感じることで、本当はもっと感じたくない痛みを感じさせないようにしているのではないか、と考える。
その感じたくない痛みとは、なんなのか、を考える。
自分の痛みを感じられるのは自分だけ、それを我慢する決断をするのも、逃す術を見つけ出すのも、原因を考えるのも、地球上に自分しかいないんだ、と。
* * * * *
長くなりましたが。
だから、結局言いたかったのは、
もう自分が弱いんだ、とか、みんなはもっと我慢してるとか、
そういう風に思うの止めようと思います、というお話でした。
(そうなのか!?)
ぎっくり首になって、考えた。
この週末、本当に寝たきりでした。どうも、robeです。
というのもですね、実は土曜日の朝に、「ぎっくり腰」ならぬ「ぎっくり首」になってしまったのです・・・
この週末土曜日は、次のイベント(※私は仲間数人とパフォーマンスグループをやっております)の稽古始まりで、久々お稽古の準備しつつバタバタと準備していたのです。
稽古着をリュックに入れながら、パーカーを羽織ってさあ一旦ベッドに腰掛けようと思った瞬間、
ぴき!
って音が、なった、ような気がしました。
その瞬間、首に激痛がじわじわと。
「あ、やばい、気がする」
と思ったら、布団にごろりとなり、しばし起き上がれず。
稽古仲間にすぐメールを入れこの非常事態を知らせて、とりあえず落ち着くのを待って病院に行ったところ、「筋膜炎だろう」と言われました。痛み止めと炎症剤と筋肉を和らげる薬をもらって終わり。「ぎっくり首なんですかね」と聞くも、「そんなものはない」と一蹴される。ないんかい。
でもね、本当に所謂ぎっくり腰のような体験だったんですよ。。なったことない私が言うのもなんですが、ぴきっと来た後に途端に立てなくなる的なやつ。なので、ここでは堂々と「ぎっくり首」とさせてください笑。
そこからは本日月曜の朝まで、文字通り「ふて寝」です。
それしかなかったし、でも寝てるにも寝返りがうてないから(うつと痛い)、なるべく体勢を変えないようにして。
しかもその日は、稽古後に観にいく予定にしてたライブもあったのに・・・チケットも取ってしまっていて二重にがっくり。ついてないなあ。でも仕方がない・・・一緒に行く予定にしてた子にも謝りを入れ、とにかく日がなベッドの上。
・・・動けない+痛いって、本当に辛いですね。
普段の健康体がどれだけ大事だか思い知らされます。
今朝は、当初よりだ~いぶ我慢できる感じになったので、湿布の匂いを撒き散らしつつ出社いたしました。ロボコンのような動きで対応しておった次第です。
* * * * * *
そして、ここからが私の書きたいことなんですが。
あのですね、なんとなくなんですが、ワタクシ、このぎっくり首の原因めいたものを感じてるんです。
勿論単純に、こうなった原因としては、コリの蓄積とか疲れとかストレス・姿勢の悪さナド等、そういう理由は確実にあると思います。そうなんでしょう、きっと。
でも。
私の中で、すごく腑に落ちる出来事があった。
* * * * * *
その前日に、友達二人と下北沢にライブを観にいってたんです。
その友達の歌の師匠さんがユニットでゴスペルを歌うということで。ライブは大盛況で(正直スペースが足りないくらいの人・人)、私はその先生一人のみ面識がどうにかある程度でしたが、ゴスペルのプロの方々の歌声に圧倒されました。ゴスペルって、もうパワーをホントに感じる。その人の人間力みたいなもんが直接くる。
聴いてる間、メロディーに自然に乗りたくなる自分の身体と、そして心のどこかで「この人達は自分のやっていることにいささかの戸惑いも迷いもないんだろうな」と思ってました。うらやましかった。
そしてライブ後に、その友達二人とカフェに行って少しだべったんですが。
そこで、その友達の一人が、私ら仲間の一人の近況を教えてくれたんです。まあ、簡単にいうと、ものすごく格好いい宣材写真がアップされてたんですね。その子(仮にAちゃんとします)は、私らの仲間でもあるんですが、もう一つの団体にも所属してまして、その団体がまあ、私らとは規模もファンの数も比べ物にならないくらいのところなんです。
その団体さんで撮影されたAちゃんの宣材写真は、とってもとっても格好よくて。(Aちゃんも男役をやっています)
「いいね!」の数もさることながら、友達ともそれを一緒に見ながら「ヤバイね」なんて言ってたくらい、本当に素敵だったんです。ああ、こりゃファンができるなって。
・・・なんかね、正直観た後に、「ああ、見なきゃよかったなあ」と思ってしまって。これを見たら確実に自分が「落ち込む」ことが分かってた けど、案の定落ち込んだ。
Aちゃんが「迷いなく自分の好きなことに邁進してて、そしてそれを評価される立場にいる(場所にいる)」ということに、どうしようもなく羨ましくなって。醜い感情なのかもしれませんが、これはもうどうしようもない。一旦湧き出た感情を、違う名前に置き換える努力はしますが。
私はここ数週間、ずっとずっと悶々としてきました。
今の職場での自分のよるべなさ。情けなさ。嫌いな人。
今の自分がやっているグループの活動のこと。それに対する自分の不安定な思い。
自分が本当は何をやりたいのか分からないこと。
男役を試してみたくて、ユニットもやりたいと思いつつその足場が出来ないこと。
全部全部、自分が二の足を踏んでいるのも勿論なんですが、単純に本当に気力をどこにどう持っていいか分からない。いや、その気力さえ今は本当にあるのか、という感じです。
自分がやりたいことをちゃんと分かってて、そのことに全力投球していて、その上でそれを評価されている(もしくは反応を貰っている)。
これがとってもとっても羨ましいんだと思う。
分かってはいたけど、そのことを改めて突きつけられて、自分がびっくりするくらいその事を羨んでることに気づいて、落ちこんだ。でも友達の前だからそうと悟られたくないから、明るく振舞おうとしたけど、その瞬間から腰がじわじわと痛み出した。帰りの電車ではずっと手を腰に当ててました。
そして、次の日、首が・・
私にはすごく腑に落ちました。
ここ数週間の全部が、首にきたんだなって。
嫉妬は受身の攻撃性である。(by 加藤諦三)
わたし自身が受身でいる限り(能動的でない限り)、嫉妬心は消えないし、自分が何かに夢中にor没頭していたら、そういう羨む気持ちって起きないんだろうなと思う。
だから、自分がやりたいことを早く定めたい。
そしてそれが、人から「認められる」からじゃなくて、「好きだから」やる、というものをみつけたい。
なぜなら「人から褒められたり認められたりするもの」を基準に決めてしまったら、それが叶わなかったときに私は多分再び猛烈に嫉妬してしまうか、自分をさらに卑下する方向に行ってしまうと思うから。
人に褒められること・認められることを目標とするんじゃなく、自分がやりたいこと・興味のあることを知り、やってみる。そうすればきっと、羨むという気持ちからだいぶ遠ざかれる気がする。
* * * * * *
このぎっくり首から学ぶことがあるとするなら、こんなことなんだろうなと思います。
花椿webサイトの「ダルちゃん」が面白い。
皆様、花粉とはいかが共存しておりますでしょうか。どうも、robeです。
ネットサーフィンが好きな私ですが、たまに自分がピンとくるようなコラムやブログに出会えると、すぐに「お気に入り」登録して全記事読破したくなるような、つまり恋に落ちてしまいます。ダーリン、アイウォンチュー。
その中で、今日は。
「花椿」って皆さんご存知ですか?
資生堂の元は月報らしいのですが、月刊誌としては2016年に刊行が終了し、今はwebサイトの方と、年に4回の季刊誌として流通しているそうです。
私は「花椿」と聞くとまず思い出すのは、天海祐希さんがまだタカラヅカに入る前に拍子を飾った雑誌、というものすごくコアな情報の中で認識してました笑。(昔読んだ天海さんのエッセイかなにかに載ってた気がすんですよね・・・)
この花椿のwebサイトを、なぜ覗くことになったのかあまり覚えていないんですが、そこで、毎週木曜に更新される「ダルちゃん」という漫画が面白いんです。
(2018年3月2日現在は第21話まで更新)
この漫画、勿論第1話から読んでもらいたいんですが、題名の「ダルちゃん」っていうのは、主人公の女性の呼称なんです。
1話から読むと、この女性が「丸山成美」さんというちゃんとした名前のある24歳の派遣社員の女性であることが分かるのですが、なぜ彼女が「ダルちゃん」かはすぐに明かされます。
(※ここからは完全にネタバレになってくるので、嫌な方はここからスルーしてください)
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彼女はいわゆる「ダルダル星人」で、例えばお風呂に入ることやメイクをすること、ハイヒールを履いて通勤すること、これら全てを駆使してようやく「人間」という擬態ができるようなんです。ダルダル星人のときの丸山さん=ダルちゃんは、絵柄的にも本当にアメーバのような宇宙人なんですが笑、会社にいくときや社内にいるときの彼女はきちんとしたOLさんとして描かれています。そして彼女が素の姿を見せる時(自宅にいるときや、一人休憩中の屋上など、擬態をしなくてもよい空間では)、再び「ダルちゃん」としての姿を見せます。
もう、この導入からしてとっても好みだなと思って。社会で生きていくうえで、特に女性は、いろんなもので自分を武装させている、という暗喩ですよね。でも本当は、みんな自分の「ダルダルさ」を自覚している。
そしてこの物語がどういう展開をみせていくかというと、ダルちゃんは社内のとある男性から声をかけられるんですが、この男性との関わりの中で、ダルちゃんははじめて「自分が人を嫌いになる」感覚を知ります。いえ、当初は「嫌いになる」という感覚ではなく男性に対しての接し方が全く分からなくて、がんばって周囲を見ながら「擬態」させていくのですが、この男性はダルちゃんを口説く姿勢はみせてくるものの「自分が常に上位に立った上で女性を自分のモノにしたがる」という中々のクズっぷりで(でも読んでいると分かるのですが、こんな男性いるいるという描写の上手さ笑)、ダルちゃんは当初「この人に必要とされる役割を演じること」にものすごく腐心します。しかし最終的には、この男性から「打ち捨てられた生ゴミみたい」と自分を感じさせれるような展開に。
ここで秀逸なのは、そのことを最初に指摘するのが会社の同僚の女性なんですよね。ダルちゃんが当初彼に頑張って(無理して)合わせているのを見て、「あいつに尊厳を踏みにじられるようなこと許しちゃ駄目だ」と告げるんですが、ダルちゃんはその言葉に反発します。なぜこんなことをこの人に言われなきゃならないのか、と。そしてむしろその彼女のことを「嫌いだ」と思うのですが・・・
ダルちゃんがぼろぼろの雑巾のようになっているときに、彼女は告白してくれるのです。昔自分も似たような男と付き合って、そして自分を踏みにじってしまった、と。そしてその告白を聞いたダルちゃんはおもわず擬態を忘れます、ダルダル星人になりながら涙をこぼすダルちゃんを、「大丈夫、大丈夫」といいながら先輩は抱きしめてくれるのです。
「嫌だな」と思った先輩は、本当は自分の合わせ鏡のような存在で、今まで「擬態」でしか自分をこの世界で溶け込ませることを知らなかったダルちゃんが、初めて知る素の自分=本当の気持ち。ここ、泣けました。
* * * * * * * *
この物語はさらに進んでいくのですが、もうね、なんかとっても女性に読んで欲しいなと思う漫画です。
女性が抱えるアンビバレンツな思い
・自分自身を愛すること
・人から愛される自分をつくること
これらの両立がいかに難しいものなのか、いまの社会を生きる私たちにはとっても刺さるものがあると思います。
このマンガの作者の「はるな檸檬」さんてどこかで聞いた名前だ!と思ったら。
タカラヅカファンの生態と日常を描いた「ZUCCA×ZUCA」の作者さんだったのね!これも面白いんだなあ~私はそこまでヅカに詳しくはないんだけど(一般のタカラヅカを知らない人よりは基本的知識がある程度。だけど今の5組のトップさんとか知らない・・)
こういうあるあるなことを描くのがとてもお上手なんでしょうね。
(おもうんだけど、全ての物語は「共感」を軸としてて、その共感=あるあるな事をいかに伝えるかっていうのがとっても難しいと思うし、その作者の力量なんだなと思う)
続きが早く読みたいなあと思わせる作品です。
おすすめ。
モテたいから男役。
最近気持ちが滅入ることが多いです。どうも、robeです。
春の訪れ、というか春の足音?ほんとうに小さい足音が聞こえてくるようなまだ全然遠いような、この焦らされるような三寒四温。
身体も結構こたえているのでしょうね。
もうため息と「しにたい」の嵐ですよ。(本気でしにたいと思っているわけではない、でも思わず口をついて出る、という感じ)
ここ2週間色々ありました。
特筆すべきはLの合コンに出た、ということでしょうか。
ずっと行ってみたかったけど勇気がでなくて。
でも行ってみていろんな感情が起こりました。
同性だろうが異性だろうが、モテる人はモテるし、モテない人はモテない。そして人の好みは多種多様だなあ、だから世の中成り立ってるんだだなあとか、そんなことを思わされました。
(このときのことについてはまたどこかの記事で詳しく書きたい)
そして、私は思いましたよ。
「すべて、モテたくてやっているんだな」と。
私は、趣味、というかライフワークのような感じで、仲間とミュージカルショーみたいなパフォーマンスをやっています。大学時代から合わせるともう13年くらいになる。女性だけのグループでミュージカルというとタカラヅカを連想する方も多いと思いますが、まさに「男役」「女役」に別れてパフォームするので、そういう意味では近いです。ただ、耽美ではないし、どちらかというとポップで明るくワイワイのような雰囲気。集まっている人間のもつ雰囲気なんでしょうね。
来る5月にも、豊洲駅前の小さな野外スペースで、そんぐ&だんすします。ここでもお知らせしたいです。(読む人がいるかは不明)
私はそこでも男役をやるんです、というかこの団体では基本的に私は男役。スタイルとか見た目とか含めて、あくまでもウチの中においてはですが。
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そこでね、ここ最近すごく自覚してることがあって。
もうね、私の根本的な欲求として「モテたい」があるんですよね。
もう恥ずかしい、本音まっさら。
「男役」やりたいのは「モテたい」から。
ここが自分が不思議だなと思うのが、私は多分女性としてもモテたい(男性から、という意味)気持ちは0じゃないんだけど、女性から好意を得たいという思いの方が強いということ。だから男役をやるんでしょう。
だけれども、「男役」=「カッコイイ」かというとそうではなくて。
カッコイイ人は男役じゃなくてもカッコイイし、かっこよくない男役もいるもんね。(※ここで言う、「男役」はタカラヅカの方々という捉え方ではありません。むしろそれ以外といってもいいくらい。個人的にはタカラヅカの男役さんは「プロ」だなと思っているので、どちらかというと、私のように外部でやっている人のことを言っています)
私自身がかっこいい女性に惹かれるところがあるので、たぶん憧れを自己投影させたいんでしょう。
かっこいい女性が好き⇒男役に惹かれる⇒自分もそうありたい⇒男役をやる。
Lの界隈で、ダナースと呼ばれる、いわゆる「ボーイッシュ×ボーイッシュ」さんのカップルがいるのも、なんとなく頷けます。(私がそうかはさておき。)
この話はまだまだいっぺんに語りつくせないところがあるので、今日はこの辺りで。